あの頃。1989。

紀行文です。 1篇目は大阪―北海道 徒歩旅行の記録。

1989。あの頃。歩く。前へ。歩く。



「わーはっはっはっは。しょーたろー何してんね、もう負けか?!!」
サークルの先輩の丸本さんの家でシャワーを浴びているとき、帰ってきた丸本さんが風呂場のドアを開けて、大笑いしながら声をかけてくれた。
ほんの8時間前、関西大学の図書館のおおきな庇の下で、僕のはじめての旅の壮行会を開いてくれたのが丸本さんだった。
まるで出征式のように大勢集まってくれたみんなで冷酒を酌み交わし、円陣を組んで大学の校歌を合唱。
そして万歳三唱。
校門を出て右に伸びる長い長い坂を登り切って、僕が見えなくなるまで大声でエールを送ってくれたのだった。
涙が出た。
ありがとうみんな。
東北でまた会おう。


背中にはテントや自炊道具を満載した30kgのザック。
靴はミズノのグランドキング。
マメ予防に靴と靴下の摩擦を減らすために靴下に貼ったガムテープ。
短パンとTシャツ、ホワイティ梅田のバイトでもらった赤いキャップ。
ウエストバックには日本地図と買ったばかりのウォークマン。
装備は万全のはず。


そう1989年7月21日。僕は大阪から北海道へ徒歩旅行に出発したのだ。
朝10時だというのに気温は30度を超えていた。
壮行会で冷酒を飲み過ぎたせいで、大量の汗が噴き出てくる。
気持ちが悪い。
一度側溝にお好み焼きを吐く。少し楽になったが気分がさらに悪くなる。
まだ歩き始めて1時間も経っていないのにすでに戦意喪失気味になってきた。
それよりも大きな問題が立ちはだかってきた。


道に迷ってしまったのだ。


計画したルートは関西大学のある吹田から南下して淀川にでる。淀川を遡って京都へ。
京都から1号線で大津へ。大津から琵琶湖の湖西を北上して日本海へそこから一気に青森。
青函連絡船→函館→函館山。函館山の展望台で大学の校歌を歌う。だった。



持っているのは裏表で日本列島を図示している日本地図のみ。
大阪の吹田から門真の淀川までの表示などない。
このとき気づいたのだが道路の標識は車のためにあるのであって、歩く人向けにあるのではないということ。
仕方なく道行く人に尋ねることにする。まだこの時は知らない人に道を聞くということに慣れていなくて、道を聞くというだけでかなりのプレッシャーを感じていた。
勇気をだして道を聞いても「南はどちらですか?」とか「淀川はどちらですか?」という尋ね方をすると、大概の人はちょっと「え!」という顔をして、私の風体と巨大なザックをみて「ああ」という顔をされ、微妙な間が発生する。
そしてほとんどの人は「わかりません」と答えるか「たぶんあっち」と間違った方向を教えてくれたのだった。
今思うと私も含めてだが、大阪に住んでいて東西南北がはっきり示せる人は殆どいないし、おそらく淀川がどこにあるのかを意識している人も少ないと思う。
やっと淀川河川敷について、通りかかった人に「京都はどっちですか?」と尋ねたら、、かなり驚かれ「川の流れを見るとあっちから流れてるからあっちやろ」という答えを頂いたのだった。