あの頃。1989。

紀行文です。 1篇目は大阪―北海道 徒歩旅行の記録。

1989。あの頃。2 あかん。全然あかん。

淀川の河川敷を歩き出して1時間もしないうちに泣き言を言い始めた。
酒はこの炎天下のおかげですっかり汗になって抜けてしまった。
酒が抜けて身体の感覚が戻ってくると、
30キロのザックが肩に食い込んで痛い。
僕の体重約60キロとザックを支えている足首が痛い。
足の裏には水ぶくれがいっぱいている。これも痛い。
そもそも足の筋肉がもう歩きたくないと悲鳴を上げ続けている。
と、この文書を書いている20数年後の今、初めて気づいた。
この頃の僕には、事前に40キロ歩いてみるとか、30キロのザックを背負って1キロでも歩いてみるとかいう予行練習をしてみるという知恵は全くなかったのだった。
計画性の無さは昔とあまり変わっていないが、今の自分はあの頃より愚かではないような気がする。
あの頃みたいに「見る前に飛ぶ」ことができなくなっただけなのかもしれないが・・・。


まだ関大から10キロぐらいしか進んでいない。これはあかんで。
出発前の計算では、
大阪―青森間が1200キロ。
函館までの旅程は30日。
1200÷30=40。
一日40キロ歩けば大丈夫。
そして人の歩く速さは平均で時速4キロ、ちょっと早く歩けば時速5キロ位になる。
体力には自信があるから時速5キロなど余裕だろう。もしかしたら時速6キロも平気かもしれない。
しかしここは厳しく見積もって40÷5=8。
1日たった8時間で青森まで楽勝で行ける。
なんの裏付けもないデーターでの計画だった。


そう今日は滋賀県の大津、少なくとも京都には入っていなければならない筈だった。


夕焼け空になってきた頃、足を上げるのも精一杯。
10分歩いては20分休むという散々たる状態に陥ってしまったのだった。


そしてここはまだ枚方市。関大から20キロしか離れていない。
今日見送ってくれた丸本さんの家がある町だった。


持ってきた炊飯道具で自炊をし、テント張って眠る予定だったが、ただひたすら横になりたい一心で、投降兵となって丸本さん家のドアベルを鳴らしたのだった。


風呂場で僕より後に帰宅した丸さんに
「わーはっはっはっは。しょーたろー何してんね、もう負けか?!!」


ご飯をごちそうになってる時も。
「ようやった。俺やったら学校からここまで歩くことすらできひん。ようやった。わーはっはっはっは。」
この豪快な笑いがどれだけ僕を慰めてくれたか。ありがとう丸さん。


丸さんの部屋で旅の話は一切せず、サークルの誰々さんが可愛いとか、いやあの子はやめとけ、とかまるで今日の出来事がなかったように笑い話にふける。


僕はこれからどうしようとか明日は出発できるのかとかいう課題を一切うっちゃって、思考停止をキープしていた。


そこに同級生の南方が愛車を駆って駆け付けてきてくれた。
しばらく僕と丸さんの馬鹿話に付き合ってくれていたが。


「それでショータローこれからどうすんねん?。もうやめてもいいんちゃうの?」
大地真央ばりのくっきりまなこで見つめられる。


そう言われて腹が決まった。


「もちろんいくで。目指せ北海道や。絶対にあきらめへん」


ありがと南方。


実はあの時「これは無理やな」と殆どあきらめててん。


お前の真剣な眼に殺されてもうた。それとも売り言葉に買い言葉かな(笑)。


ありがと。


翌朝8時まるさん宅前で、2人に2回目の壮行会を開いてもらい、また歩き出した。


つづく。

1989。あの頃。歩く。前へ。歩く。



「わーはっはっはっは。しょーたろー何してんね、もう負けか?!!」
サークルの先輩の丸本さんの家でシャワーを浴びているとき、帰ってきた丸本さんが風呂場のドアを開けて、大笑いしながら声をかけてくれた。
ほんの8時間前、関西大学の図書館のおおきな庇の下で、僕のはじめての旅の壮行会を開いてくれたのが丸本さんだった。
まるで出征式のように大勢集まってくれたみんなで冷酒を酌み交わし、円陣を組んで大学の校歌を合唱。
そして万歳三唱。
校門を出て右に伸びる長い長い坂を登り切って、僕が見えなくなるまで大声でエールを送ってくれたのだった。
涙が出た。
ありがとうみんな。
東北でまた会おう。


背中にはテントや自炊道具を満載した30kgのザック。
靴はミズノのグランドキング。
マメ予防に靴と靴下の摩擦を減らすために靴下に貼ったガムテープ。
短パンとTシャツ、ホワイティ梅田のバイトでもらった赤いキャップ。
ウエストバックには日本地図と買ったばかりのウォークマン。
装備は万全のはず。


そう1989年7月21日。僕は大阪から北海道へ徒歩旅行に出発したのだ。
朝10時だというのに気温は30度を超えていた。
壮行会で冷酒を飲み過ぎたせいで、大量の汗が噴き出てくる。
気持ちが悪い。
一度側溝にお好み焼きを吐く。少し楽になったが気分がさらに悪くなる。
まだ歩き始めて1時間も経っていないのにすでに戦意喪失気味になってきた。
それよりも大きな問題が立ちはだかってきた。


道に迷ってしまったのだ。


計画したルートは関西大学のある吹田から南下して淀川にでる。淀川を遡って京都へ。
京都から1号線で大津へ。大津から琵琶湖の湖西を北上して日本海へそこから一気に青森。
青函連絡船→函館→函館山。函館山の展望台で大学の校歌を歌う。だった。



持っているのは裏表で日本列島を図示している日本地図のみ。
大阪の吹田から門真の淀川までの表示などない。
このとき気づいたのだが道路の標識は車のためにあるのであって、歩く人向けにあるのではないということ。
仕方なく道行く人に尋ねることにする。まだこの時は知らない人に道を聞くということに慣れていなくて、道を聞くというだけでかなりのプレッシャーを感じていた。
勇気をだして道を聞いても「南はどちらですか?」とか「淀川はどちらですか?」という尋ね方をすると、大概の人はちょっと「え!」という顔をして、私の風体と巨大なザックをみて「ああ」という顔をされ、微妙な間が発生する。
そしてほとんどの人は「わかりません」と答えるか「たぶんあっち」と間違った方向を教えてくれたのだった。
今思うと私も含めてだが、大阪に住んでいて東西南北がはっきり示せる人は殆どいないし、おそらく淀川がどこにあるのかを意識している人も少ないと思う。
やっと淀川河川敷について、通りかかった人に「京都はどっちですか?」と尋ねたら、、かなり驚かれ「川の流れを見るとあっちから流れてるからあっちやろ」という答えを頂いたのだった。